天文23(1554)年、島津義弘の父である貴久は、大隅国への勢力拡大のために蒲生氏と戦いを開始する。
その際、義弘だけでなく兄の義久や弟の歳久も戦場に赴くことになり、蒲生氏との戦いが兄弟にとっての初陣となった。
蒲生氏の勢力は、薩摩国との国境である平松にあり、その拠点が岩剣城であった。
岩剣城は、享禄2(1529)年に築城されたとされ、北東側に急峻な崖が発達した天然の要害である。
山頂の標高は約220メートルあり、尾根に沿って曲輪が配置されていた。尾根にあることから、それぞれの曲輪の広さは狭いが、一番広い曲輪だけは1045平方メートルある。当城には貴久などとの戦いに備えて、蒲生氏を支援する祁答院氏の武士団が配置されていたとされ、兄弟が協力しての攻撃に対応していた。
この岩剣城を攻める際には、貴久の弟である忠将も船で応援に駆け付けた。鹿児島湾沿いにある脇元に到着した忠将の軍勢は、鉄砲を使用したと伝わっている。これが、日本の合戦におけるかなり初期段階の鉄砲使用とされている。
こうした戦略によって、10月3日に祁答院勢は城を放棄。父・貴久は戦勝によって、義弘を岩剣城に在番させることを決定する。
ただ、前述したように急峻な崖を有する山城だけに当城での在番は現実的でないことから、麓に館を築き、約3年間在城することになる。この麓の館が平松城とも呼ばれ、現在は重富小学校の敷地となっている。
さて、3年間の在城期に義弘が度々訪れたとされているのが、岩剣城の麓にある岩剣神社である。
御祭神は大己貴命と保食神で、天文11(1542)年に奉納された棟札がある。義弘は、この神社に対して神領として60石余りの神林を寄付し、神舞の奉納を行ったとされている。
義弘は3年の間に父らと蒲生氏の居城である蒲生城を攻めることになり、弘治3(1557)年には蒲生氏は祁答院へと逃亡、滅亡することになる。