2019年4月 伊作亀丸城跡(日置市吹上町)

201902

天文4(1535)年7月23日、今年が没後400周年となる島津義弘は伊作亀丸城に誕生した。

父は、島津家中興の祖と称される15代当主の貴久。母は入来院重聡の娘で、後に雪窓院と名乗る人物。義弘の幼名は又四郎で、後に忠平を称す。

伊作亀丸城は、兄・義久も2年前に誕生した城で、祖父の忠良もここに生まれている。ちなみに父の貴久の誕生地はこの城でなく、祖父である忠良が田布施城こと亀ヶ城を居城としていた頃に誕生している。

このように戦国時代の島津家を代表する人々が誕生した城だけに、江戸期に入り一国一城令が発せられてからも、鹿児島城下から役人が管理のために派遣されるなど特別な場所として位置付けられていた。

この城が築城されたのは、南北朝初頭期とされていて伊作荘の地頭であった伊作島津家によるものとされている。この伊作島津家は、一時期この地から離れた地域で活躍することになるが、島津忠良の祖父の久逸の頃には、再び伊作の地に戻っている。その久逸は、明応9(1500)年に薩州島津家との抗争によって戦死し、忠良の父となる善久は、それ以前の明応3(1494)年に下僕によって殺害されている。

つまり伊作城に居城する忠良は、幼い頃に後ろ盾を失う時期があったということになる。忠良の母・常盤は、子供のために相州家の島津運久と再婚、忠良は伊作島津家と相州家と両方を継ぐことになる。こうした事情から、父の貴久は伊作亀丸城ではなく田布施城で誕生したのである。

さて伊作亀丸城は、本丸の標高は約80メートルで、周辺に数々の曲輪を確認することができる。二之丸にあたる西之城は、本丸の西側に位置し、その北には御仮屋城がある。一番西側には花見城があり、海岸部からの攻め手ににらみをきかせられる位置になる。城の南側を流れる伊作川が天然の掘の役割をし、その周辺に麓が存在している。

こうした先祖が築いてきた城で幼少期を過ごした義弘は、父が勢力を南薩地域から北へと拡大する動きにあわせて、居を移すことになる。それは伊作亀丸城の北に位置する一宇治城こと伊集院城である。