旧牧園町(現在は霧島市牧園町)は、西南戦争の際の激戦地のひとつであった。それだけに、山中には西郷軍と政府軍両軍の堡塁がおびただしい数残存していたが、しっかりとした調査などは行われないままであった。
近年、それらを地元の有志の皆さんが、位置確認や発掘などをし、無数の堡塁群を地図にプロットするなど地道な作業を行った。
これにより、堡塁の保存、そして見学できるように整備がなされ、昨年の大河ドラマ「西郷どん」の放映に間に合わせることができた。
旧牧園町内だけでも400以上の堡塁が構築されていることや、堡塁の状況などから、西郷軍や政府軍がどのような戦闘を行ってきたが改めて理解されるようになってきている。
こうした堡塁群が実際に使用された時期は、主には明治10(1877)年の7月初旬のことである。
まず6月20日から30日にかけて、旧牧園町に隣接する大口や横川にかけて激しい戦闘が展開された。
これは、西郷軍の辺見十郎太率いる雷撃隊と水俣から上陸してきた政府軍の第二・三旅団との攻防であり、政府軍側が有利に戦闘を進めた。堡塁が戦闘の場となるのは、大口方面の前線が後退し、西郷軍の軍務所が踊(旧牧園町の旧地名)の麓に置かれる状況になってからのことである。
しかし、この地域での戦闘は、全面衝突には至らず終結している。
それは、政府軍の総進撃が7月7日の早朝に計画されていたが、西郷軍が堡塁を放棄して6日の夜から7日の未明にかけて撤退したからである。また、西郷軍が急に撤退したことで政府軍もすぐ追撃に移り、この地の堡塁などは破壊されずに残ったのである。
こうして、旧牧園町山中の堡塁群は、比較的良い状況で140年の歳月を保存されてきたことになる。ちなみにこの地域での戦闘は、西郷隆盛本隊が8月31日に延岡方面から城山を目指す際にもあった。
現地に残された円または半円などの形状の堡塁群に触れると、当時これらを築き守った西郷軍兵士の気持ちに寄り添える気がしてくるようである。