日本の警察制度の創設者であり、初代大警視として知られる川路利良。
それだけに、鹿児島県警本部前には等身大の銅像が建立されている。その銅像は有名だが、鹿児島県内にあるもうひとつの銅像は知られていない。
川路利良は鹿児島市の皆与志町の出身で、誕生した場所には記念碑などが建立されているが、そこではない。
場所は霧島市横川町にあり、交通量の多い通りから少し離れた場所にあるので、あまり気づかれていない。
その銅像は、平成2年に建立されていて、除幕式には鹿児島県警本部長やフランキー堺氏らが祝辞を述べている。
なぜ、この地に建立されたかは銅像の横にある「民部塚」と刻まれた石に由来している。
戦国期に横川城の城主であった北原伊勢守は、島津義弘に攻め込まれ、最終的には落城してしまう。その際に一緒に戦ったのは弟の北原民部であったが、その戦いで戦死してしまう。島津義弘に敗れた北原伊勢守は、横川の地を離れて蒲生に逃れて、北原姓を川路姓に改めて生活するようになる。これが川路利良のルーツであり、横川の地は先祖ゆかりの地ということになる。
皆与志で過ごしていた川路利良は、時々先祖ゆかりの地を訪れていたとされていて、この地に銅像が建立される意味は多いにあるといえる。
さて川路利良は警視隊の立場として、西郷隆盛が明治7年に鹿児島で私学校を設立して、その生徒らが不穏な動きをしないかを偵察するための密偵団を派遣している。
その密偵団の存在が、西南戦争のきっかけのひとつにもなったこともあり、鹿児島ではあまり顕彰されてこなかった。
また西南戦争でも警視隊は、田原坂の戦いでは抜刀隊を編成して形勢を有利にし、水俣方面の戦いでは別働第三旅団として辺見十郎太の雷撃隊を追い詰めるなどの活躍を見せている。
このように西南戦争では西郷軍とは敵対する関係にあったが、日本の警察制度を確立した人物だけに、もっと評価や顕彰されてほしい人物といえる。