2018年9月 西郷隆盛も渡った渡唐口(薩摩川内市向田本町)

201809

薩摩藩内では最大の河川となる川内川。

現在は太平橋が架橋されているが、明治8(1875)年以前は渡船で対岸との行き来をしていた。

薩摩街道こと出水筋は西郷隆盛にとってもおなじみの街道。ここを行き来していた西郷は、渡船が停船している渡唐口を必ず通過していたことになる。

それはいつであったのかを記録にあるものから検証してみたい。

一つ目は島津斉彬の参勤交代に従っての通過で、安政元(1854)年の1月22日に向田へ到着しているので、通過は次の日となる。

二つ目がその帰路で、斉彬の帰国に同行しているので安政4(1857)年5月23日頃。

三つ目が次期将軍継嗣問題解決のために斉彬の命を受けて単独で上京することになり、同じ年の11月2日頃通過している。

四つ目が次に鹿児島に戻って来た安政5(1858)年の6月6日のことで、一橋慶喜を次期将軍とする活動が井伊大老の就任によって厳しくなった状況などを鹿児島にいる斉彬に報告するため。

五つ目が斉彬に報告した直後で、福岡藩主に斉彬のメッセージを届けるため、6月18日に鹿児島城下を出発。川内通過は6月19日頃と考えられる。

六つ目が同じく安政5(1858)年10月、将軍継嗣問題において行動を共にしてきた清水寺内にある成就院の住職である月照の保護を目的として、5日頃に通過。

七つ目が文久2(1862)年、西郷は3月13日に徒目付・庭方兼務に復職して、肥後や筑前の状況把握を目的に村田新八と下関に向かい、14日頃に川内を通過している。

少し間があって八つ目が慶応元(1865)年1月、長州問題解決のために岩国入りした西郷が、鹿児島に帰国する際に14日頃川内を通過している。

九つ目はその後すぐとなる2月6日に村田新八と坂木六郎とともに大宰府に向かうため鹿児島城下を出発している。これは大宰府に滞在している尊攘派の公家である三条実美らに面会するためのもので、川内通過は2月7日頃であろう。

以上が史料などからたどることのできる渡唐口を利用した西郷の記録であるが、若い頃の仕事場が川内方面であったことから、他にも複数回通過した可能性はある。

先を急ぐ用事も多かった頃の西郷の目に、川内川の流れはどのように映っていたのだろうか。