錦江湾に面した大隅半島の港のひとつである高須港。
江戸時代には鹿屋郷の港として発展し、現在の高須川河口が港の役割を担っていた。
鹿屋郷はカンショ(サツマイモ)やユリの産地であったことから、積出港である高須港の名前を冠したブランド品の「高須甘藷」や「高須百合」が広く知られていた。
大正5(1916)年に大隅半島に初めて鉄道が誕生したのも鹿屋と高須間であった。つまり、高須港は大隅半島の物資を薩摩半島側へと運ぶ際の重要な拠点港ということになる。
また物資に限らず、車や鉄道がないころには船が最たる移動手段であり、高須港からも鹿児島行きの船が出ており、利便性の高い港であったようだ。
このような地理的条件のなかで、狩猟を目的として鹿児島県内を徘徊していた西郷隆盛も数回、この地を訪れたとされている。ただ、正確に訪れた時期をたどれるような史料はなく、宿泊したとされる民家の方の証言が当時のことを静かに伝えてくれる。
西郷が高須港に来訪した際に宿所にしていたのは、高須川河口沿いにある田中吉衛門邸であった。当時の家は解体されて現存していないが、家のあった場所には石碑が建てられている。また、解体された家の一部は、高須港近くの霧島ヶ丘公園内の茶室に使用されている。この茶室には、西郷が使用したと伝わる手水鉢やたんすも置かれている。
西郷の狩猟を目的とした来訪時期は不明な点も多いが、明治10(1877)年の2月には高須に来訪したという具体的な日にちが伝わっている。それは、西南戦争前夜に起きた私学校の生徒による火薬庫襲撃の直後だ。その報を受けた西郷が、鹿児島へと戻る際に一泊したとされている。
西郷は、襲撃の報を小根占(現在の南大隅町)で弟の西郷小兵衛から受け、次に大根占まで陸路で向かい、さらに船で高須港に到着。そして田中邸に一泊して、早舟にて鹿児島に戻ったとされている。その際には「おいどんが出ないと駄目だろうか」ということを鹿児島弁でつぶやいて向かったという。
これが大隅半島への最後の来訪になるとは、高須港を離れる西郷は想像できていたのであろうか。