2017年10月 妹背橋の欄干(薩摩川内市高城町)

201710

江戸時代の薩摩藩を代表する街道のひとつが出水筋こと薩摩街道。参勤交代の行列も通行し、幕末期には数多くの偉人と呼ばれる人々が、この街道を往来した。

街道沿いの宿場町として栄えた向田から、大小路(おおしょうじ)を通過すると高城(たき)川に出会う。

鹿児島城下を出発すると、一泊目が苗代川(現在の美山)もしくは市来湊で、二泊目が川内川手前の向田となり、三日目に高城川を通過する。

高城川には当初、木造橋が架橋されていたが、弘化3(1846)年に水害にも強い石橋が竣工されることになる。その背景には、熊本藩の石工である岩永三五郎を招聘したことが大きい。

岩永三五郎は、藩内の重要な河川に石橋を架橋し、交通インフラの充実に寄与した。その仕事のひとつが高城川に架かる妹背橋であり、二連アーチの美しいものであった。そして、この架橋工事に参加した人物のひとりに若き西郷隆盛がいたといわれている。

当時の西郷の役職は郡方書役助で、弘化元(1844)年からこの職に就いていた。妹背橋の架橋工事に参加したとするならば、若き日の西郷が携わった仕事のひとつであったといえる。

ただ、この工事に西郷が関わったことを示す一次史料は、まだ確認されていない。つまり、妹背橋の架橋に西郷が関わったというのは地元に伝わる逸話によるものである。

街道に誕生した石橋も昭和35(1960)年の高城川の拡張工事で架け替えられることになり、現在は鉄筋コンクリートとしては二代目となる橋が架かっている。橋のすぐ近くには石橋時代の欄干の一部が残されていて、そこには若き西郷の上司であった郡奉行の迫田太次右衛門の名前がかすかに確認できる。また近くの出水筋沿いの畑の端には、西郷が工事に従事する際に使用したと伝わる石の手水鉢が残されている。

真意はともかく、地域では西郷が工事に関わったことが静かに伝えられてきたことだけは理解できる。信じる信じないはそれぞれに任せるとして、わずかに残る欄干には若き西郷のロマンは感じることができる。