西郷隆盛の墓が南洲墓地にあることはよく知られている。しかし、西郷隆盛の父母や先祖などの墓地はあまり知られていない。
もともと西郷家の菩提寺は南林寺であった。この南林寺は明治2(1869)年の廃仏毀釈によって廃寺となったが、その後も墓地だけは残っていた。
その墓地も大正初期になると市街地計画のなかで移転することになり、そこにあった西郷家の墓も整理することになった。
これらの墓は大正11(1922)年までに、西郷隆盛と愛加那との間に生まれた西郷菊次郎によって移転整理が行われたものが中心となる。ちなみに菊次郎は、大正9(1919)年に島津家が経営していた永野金山の鉱業館長を辞任して、墓地の近くにある薬師町に引っ越していた。そのために墓地移転に関わったと考えられる。
南林寺墓地から移転された墓は23基あり、そこには西郷隆盛の父母や祖父母の墓がある。隆盛の父・吉兵衛の墓には、隆盛という名が本当は父のものであることがわかるように右側面に「西郷吉兵衛隆盛」と刻まれている。その隣には母である「まさ」の墓がならんでいる。
墓地のなかでひときわ目立つのは弟の吉二郎の墓で、入口近くに背高くある。中央正面に「西郷吉二郎隆広之墓」と刻まれ、裏側には慶応4(1868)年こと明治元年に越後五十嵐川で負傷して、柏崎の病院で亡くなったことが記されている。隣には吉二郎の最初の妻の墓があり、さらにその隣に後妻の園子の墓がある。
ちなみに菊次郎が移転した23基のうち20基が西郷家のもので、残りの3基は西郷家に仕えた人々の墓となる。
そのなかには、西郷隆盛が徳之島で世話になった地元の琉仲為の息子の仲祐のものもある。仲祐は鹿児島に召還された西郷を頼り京都まで行ったが、慶応2(1866)年12月に病気で亡くなった人物である。
墓地の北側にある少々新しい墓は西郷菊次郎のもので、正面の揮毫は吉田茂によるものである。
このように、西郷家の墓地を訪れると、案外知られていない家族の事情を知ることができる。