慶応2(1866)年における薩摩藩英国留学生の出発の地として知られる羽島地区は、半農半漁の地域である。
平坦部が少なく、集落の背景には斜面地が広がり、稲作には適さない地勢をしている。しかし、ジャガイモなどの根菜類が盛んに栽培されており、サツマイモなどを中心とした畑作は、江戸時代にも行われていた。
台地上では水の確保が必要とされたため、江戸後期に灌漑用のため池が構築されることになった。それが現在も使用されている万福池である。
この池の傍らには水神碑があり、弘化5(1848)年3月2日に池の工事が竣工したことが刻まれている。また、工事に関係した郡奉行の小森新蔵、地方検者の伊地知三之助と的場清蔵、郡方書役福島直次郎、郷士年寄役の谷山庄兵衛などの名前も刻まれている。
さて、この工事関係者として名前がないが、関わったとされているのが西郷隆盛である。
西郷は、当時郡方書役助という役職にあり、20歳の青年であった。地域の言い伝えによると、水神碑に名前のある郷士年寄の谷山庄兵衛とともに関わっていたとされる長谷場藤蔵が、工事に来ていた西郷と親しくなり、串木野郷の麓にある長谷場家の屋敷にも出入りするような仲になったという。その藤蔵は、安政5(1858)年には江戸の島津邸の護衛をするようになり、当時江戸にいた西郷とさらに親密な関係になったそうだ。ちなみに藤蔵の息子の純考は、後に明治10(1877)年の西南戦争で西郷軍に従軍している。
つまり、万福池の工事に西郷隆盛が関わったとされる一次史料はないが、仲がよかった長谷場家に、西郷とのつながりが受け継がれるようになった。
また、薩摩藩英国留学生記念館の前にある堤防は、万福池が予算内で完成したため、余った予算で西郷が造ったという話が伝わっている。
若き西郷の痕跡はあまり残っていないだけに、このように構築されたものが現存していることは貴重といえるだろう。