安政6(1869)年1月12日、龍郷湾の西端に位置する阿丹崎(あたんざき)に西郷隆盛は到着した。
前年の11月に、西郷は大老・井伊直弼による安政の大獄によって追われる身となった京都の月照とともに錦江湾に入水したが、奇跡的に生還。しかし、幕府から目をつけられていたため菊池源吾と名を改めて、奄美大島に潜居することになった。
山川港から阿丹崎までの船は、砂糖積船の福徳丸で、通常は阿丹崎に停泊することはなく、名瀬などに寄港するような船であった。
到着した冬の時期は、奄美大島ではサトウキビの収穫期であり、人々が一番忙しく過ごす頃でもあった。龍郷湾は笠利湾から連続する入江で、通常は波も穏やかで対岸の半島の風景がとても美しい場所でもある。
阿丹崎に船が到着した際に、船を係留した海岸の巨大な松は、このことが由来して西郷松と呼ばれていた。しかし、近年の松枯れの被害によって枯れてしまい、現在は幹だけになっている。
到着した福徳丸から降り立つ西郷は、大小の刀を差して、島津斉彬から拝領した島津家の紋付の羽織を着ていたという。出迎えたのは、大島代官所の役人である木場伝内などで、通常は訪れない大和型船が到着したために地域の人々も大勢海岸に訪れたそうだ。木場と西郷は、大島時代はもちろんのこと、木場が出世して大坂にあった藩の蔵屋敷勤務になってからも交流が続くことになる。
また、出迎えには西郷から姓を「美玉」ともらった新行もいたという。この美玉新行は、がっちりした体型をしていて西郷の相撲の相手になったと言われている人物である。
奄美に到着して最初に住んだ家は、美玉新行の空き家を借りたものだった。奄美の冬は、北風が強く曇っていることがほとんどで、生活に自由度はあるものの、島から出ることのできない不自由さから西郷の最初の奄美生活は、精神状態が不安定になるものであったという。
後に愛加那という女性の登場によって、西郷の人生も大きく変化していくことになる。