桜島の南岳の火口から一番近い集落である有村は、大正3(1914)年1月12日の桜島大噴火以前は、鹿児島県内でも有数の温泉地だった。浴客も多く、大正天皇が皇太子時代に軍艦で訪れたことでも知られている。
江戸期には、鹿児島城下からも船で直接訪れることができるため、集落の砂浜には人の行き交いだけでなく、物資も積み上げられ賑わいを呈していた。そして、古写真で確認すると、その砂浜に湯小屋(浴場)が軒を連ねており、船着き場と入浴施設がセットであったことがわかる。
有村温泉を西郷隆盛が訪れたのは、明治9(1876)年7月のことである。
この半年後、西南戦争勃発の引き金となった私学校の生徒による火薬庫襲撃事件が発生したため、記録上では最初で最後となる西郷の有村温泉での湯治であった。
西郷が有村において、どのようにくつろぎ、どのように過ごしたかについては明確なものはない。もしかすると、大正3年の桜島大噴火で、入浴施設も集落も溶岩流によって埋没するようなことがなければ、なんらかの記録が残っていたのかもしれない。
現在、有村の湯を楽しめるのは、営業場所は古里温泉だが、泉源は有村温泉にある「さくらじまホテル」と、有村海岸での足湯掘り体験である。有村海岸では潮の満ち引きを意識しながら、波打ち際付近を程よく掘ると、暖かい湯を掘りあてることができる。困難な作業ではなく、スコップなどの道具があれば簡単に自分だけのマイ足湯を体感することができる。海を眺めると錦江湾が美しく広がり、桜島を眺めると雄大な南岳が圧倒的な存在感を示している。
こうした風景は、おそらく西郷が見たものと近いものであっただろう。
九州を中心として、不平士族の新政府に対しての抵抗の動きが活発化する時期であっただけに、この地で西郷が何を思い、何をしようと考えていたのか、有村の湯に触れてみるといろいろ想像できるかもしれない。