栗野岳温泉は、「仙境にて御座候」と西郷隆盛が表現し、気に入っていた温泉のひとつである。
明治9(1876)年4月、西郷隆盛は初めて同地を訪れた。前述の文は、西南戦争で一緒に戦うことになる池上四郎にあてた手紙のなかにある。
よほど栗野岳温泉がしっくりきたとみえ、その理由は同時期に湯治に訪れていた客たちにもあるようだ。手紙には、気遣うことがない人ばかりが訪れていてくつろげているといった内容が記されている。西郷も訪れる場所によっては自分を知る人間が多いことなどで、落ち着かないこともあったのだろう。
さて、このようにお気に入りとなった栗野岳温泉は、栗野岳の裾野の標高約700mの場所に位置し、現在も日帰り客や宿泊客、さらには湯治客などが訪れる名湯である。
特徴のある浴場が3か所あり、沈殿物の多い通称「泥湯」の竹の湯、泉温の高い「桜湯」、さらに蒸し風呂の「蒸し湯」があり、様々な楽しみ方ができる。
現在は噴気を利用した蒸鳥料理が名物であるが、もしかすると西郷も狩猟で得た鳥などを蒸して調理していたのかもしれない。
宿泊施設の傍らには明治42(1909)年に建立された「南洲翁遊猟之地」碑があり、裏には従僕一人と猟犬とともに同地を訪れたことなどが刻まれている。
また、栗野岳温泉の見どころとして、温泉施設から山手に5分ほど登った場所にある八幡地獄とよばれる噴気帯がある。特に気温が低い時期になると、白い蒸気が空に向かって立ちのぼったり、周辺に濃く立ち込めたりするダイナミックな様子を楽しむことができる。
これらも西郷が訪れた当時からあったものであろう。まさに「仙境」という言葉にふさわしい風景である。
西郷は、この地を訪れた翌年、明治10(1877)年に西南戦争で命を落とす。もし、その戦争が起こらなければ、その後も幾度となく訪れ、さらに多くのエピソードを残したに違いない。