文久2(1862)年4月、西郷隆盛は島津久光の命に背いた罪で山川湾に留め置かれていた。
6月になって藩命が下り、初めは徳之島への配流が下され、屋久島や奄美大島を経由して、徳之島の湾屋に到着したのが7月初めのことである。徳之島には、安政6(1859)年に奄美大島に潜居した際に結ばれた愛加那が、息子の菊次郎と生まれたばかりの娘の菊草を連れて会いにも来ている。
そのような落ち着いた日々もつかの間で、さらに遠くの沖永良部島への遠島が命じられることになり、西郷は居を徳之島の東側に位置する井之川に移すことになる。その際に滞在したのが奥屋山宅(現在の奥山家)で、庭には当時西郷が腰を掛けたといわれている松が残っている。ここでの西郷の滞在は17日間で、その間にも役人としての行動を諭したといわれている。
徳之島を出発し沖永良部島に到着するのは、閏8月14日のことで、和泊では、屋根はあるが格子が壁の役割をしていた牢での過酷な生活が待っていた。
徳之島に残る松を、西郷はどのような思いで眺めていたのであろうか。