2014年8月 イギリス坂(鹿児島郡十島村宝島)

201408

名前がまず魅力的な宝島だが、歴史の教科書にも登場する重大な事件が江戸時代の後期に発生している。

文政7(1824)年7月8日、イギリス船が宝島沖に停泊、乗員が小舟に乗り換えて島に上陸し、藩の在番役人を訪ねた。

交渉の目的は、島の牛をわけてもらうこと。当時の日本人には牛肉を食する習慣はなく、島民にとっての牛は農耕用であり、貴重な労働力であった。よってこの要望は断わられ、乗員は船に引き返した。

しかし数日後、今度は武装して島に上陸し牛1頭を射殺、さらに数頭を生け捕りにして、船着き場まで運んでいく。そこで島の役人との間で銃撃戦となり、藩庁から派遣されていた吉村九郎がイギリス人一人を射殺する事態となった。

イギリス側は死体をそのままにして帰船し、船も宝島から離れていった。これを宝島事件と呼ぶ。

この一連の出来事はすぐさま藩へ報告され、さらに幕府にも通達された。

この事件もきっかけのひとつとなり、幕府は文政8(1825)年に異国船打払令を発令し、外圧に備える体制を整えることになる。薩摩藩もしかりで、藩主島津斉興は、海岸防備を強化して、異国船の到来に備える体制をとるようになる。

まさに、その後の外国船の日本近海への到来と圧力を予見させるような出来事であったが、宝島では、この銃撃戦が繰り広げられた坂道が今でもイギリス坂と呼ばれ、日本の歴史にも影響を及ぼした出来事を静かに伝えてくれている。