島津斉彬が藩主に就任する前、薩摩藩では藩士らが見解の違いから対立し、お家騒動に発展した。これは「お遊羅騒動」と呼ばれる。次の藩主をめぐる派閥争いの様相が強かったが、嫡男の島津斉彬はもちろん、その異母弟の島津久光も関わりのないところで展開されたことでもあった。
この事件に際して切腹を命じられたひとりが赤山靭負である。靭負は、次期藩主に島津斉彬を就任させたいと考える一派のひとりであった。日置島津家12代久風の二男にあたり、兄が家督を継いだことから赤山家に養子に入っている。
この赤山靭負と西郷隆盛は関わりがある。西郷家は元来赤山家の「用頼み」という御用人役の家であり、隆盛も靭負とは面識があった。切腹に際して赤山靭負は、隆盛の父吉兵衛を呼び、一日でも早い斉彬の藩主就任を願うことなどを伝えたといわれている。
また、切腹の際に着用していた血染めの衣は、やはり父吉兵衛に託され、隆盛のもとに渡ったという。この時隆盛は24歳、赤山靭負も28歳の若さであった。
赤山靭負の墓は、現在ゆかりある日置市日吉町の桂山寺跡にひっそりとある。
嘉永3年のお遊羅騒動の翌年、赤山靭負らの思いが通じたのか、島津斉彬は藩主に就任、名君と称されるにふさわしく薩摩藩を導き、西郷隆盛は斉彬の下で頭角を現し、靭負の思いを受け継ぐかのように活躍した。
才気があっても明治維新を迎えることなく亡くなった藩士も大勢いる。赤山靭負もそのひとりといえるかもしれない。