川内駅の東側に位置する平佐は、江戸時代には北郷家の私領地だった。北郷家の系譜は島津本家に連なるが、平佐を領することになった北郷家は、都城を領していた家から分かれた家柄になる。
その北郷家に仕えていたのが有島武。ただ、この名前を聞いてもピンとこない方々も多いのではなかろうか。
その一方で、息子や孫の名前を挙げれば華々しく、作家の有島武郎や里見弴、画家の有島生馬が息子、孫には俳優の森雅之がいる。
有島武は、幕末期の北郷家の当主・久信と行動を供にしている。北郷久信は島津斉彬が藩主であった頃には、鹿児島港にある弁天台場の隊長を務め、反射炉の担当をしていた竹下清右衛門と親交もあった。
洋式砲術などに関心も高く、小松帯刀と一緒に長崎へ赴き、水雷や砲術の研究をおこなっている。その際にも武は久信に同行しており、オランダ通詞を雇いオランダ人から砲術に関する情報を得ようとしている主人と小松の様子を記録に残している。
藩の洋学校である開成所にも入学しており、明治維新後は英国留学生のひとりである町田久成の世話で大蔵省に出仕した。その後、ヨーロッパにも派遣され、財務関係の部署で日本の財政を支えた。
晩年は鉄道事業にも従事し、京都鉄道会社や山陽鉄道、さらに日本鉄道会社でも取締役を務めた。
現在はその屋敷跡地にひっそりと頌徳碑が建っているが、息子たちの活躍の陰に隠れている感は否めない。それでも一見地味ながらも、幕末の動乱期に主人・北郷久信を支え、維新後も重要な人物であった事実は、歴史が静かに伝えてくれている。