2016年7月 鮫島尚信先祖の墓(南さつま市加世田小湊)

201607

鮫島尚信は、弘化2(1845)年3月10日、鹿児島城下の山之口馬場で生まれている。

文久元(1861)年に和蘭医学研究生として長崎への遊学が命じられ、そこで英語を学ぶことになる。その後、元治元(1864)年に鹿児島に洋学校の開成所が開校すると、その訓読師として迎えられ、こうした経歴もあり薩摩藩の英国への留学生派遣に選抜された。

渡英後、他の留学生と共に学んでいた鮫島だが、時を経て留学生らが帰国するなか、森有礼らといっしょに宗教指導者のハリスを頼りにアメリカにまで渡った。しかし明治元(1868)年、本国の政情急変を知り、森有礼らとともに帰国を決意。帰国後は明治政府に仕え、海外渡航経験があったことから、ヨーロッパ方面の外交官を務めるが、明治13(1880)年12月4日にパリの日本公使館において病に倒れる。37歳という若さであった。

墓はモンパルナスの霊園にある。かつて英国やアメリカにおいて行動を共にすることが多かった盟友の森有礼は、ちょうどロンドンに滞在しており、客死の報を受けるとパリに駆けつけ、別離の詩を捧げている。

ところで、その鮫島尚信の先祖は、建久年間(1190~1198年)に鎌倉幕府より阿多の地頭に任ぜられ、薩摩に下向してきた家柄である。その後鮫島家は南薩地域で活躍し、鮫島宗政と宗行は朝鮮出兵で軍功を挙げ、江戸時代にも活躍することになる。特に兄である宗政は、貿易に力を注ぎ、唐通詞の役割も担いながら、万之瀬川の河口である小松原を拠点として家を盛り立てた。

ふたりの兄弟の墓は、かつての万之瀬川の流路があった地域にひっそりと残されている。宗政・宗行兄弟の外海に目を向けた気概は、約200年の時を経て、日本の黎明期に異国の地で命を燃やした鮫島尚信に受け継がれたように思える。